高校生の娘が慶応義塾大学のオープンキャンパスに行ってきた。受験しても合格できるわけがないから、記念受験ならぬ「記念訪問」なのだ。
そこで医学部の入試問題のコピーをもらってきて私にくれた。「自分で解いてみないのか?」という言葉は呑み込んで「ありがとう」と。30年近く封印してきた気持ちが解き放たれてしまったようだった。すぐに数学の問題にとりかかり、約8割は正解できた。受験勉強を終えて30年近く経過しているにしては上出来だと自画自賛。しかし、この問題はかなり易しかったと後で知り、そのうれしさも半減した。さすがにブランクが大きい。
私はかつて医学部志望だった。父を早くに亡くしお世辞にも裕福とは言えなかった、「どうにか大学までは行かせてやりたい」という母と兄貴のおかげで大学受験できたのだが、暗黙の了解で「国立大医学部」が絶対条件だった。しかし、当時の共通一次試験で国語と社会で惨敗し国立医学部の夢は断たれた。自分を納得させるためだけに受験した私立大医学部は数校は合格できた。今思えば喉から手が出るくらいの名門大医学部だったが、6年間にかかる学費は我が家の家計では到底無理だったし、家族に「それを払ってやれなくて申し訳ない」と思わせるのがつらかったので受験したことも合格したことも秘密にした。浪人するのもままならないので、ここで夢を諦めて理工学部の入学を決めた。4年後、大学院進学も可能だったが、なるべく早く家族の負担を軽くしたかったので民間企業に就職を決めた。その後、結婚し娘も1人授かった。今は何の不満も無く幸せな家庭である。ただ、心のどこかで「やりたかった仕事はこれじゃない」という気持ちがくすぶっていた。救命救急医か地域医療で総合診療がしたかったのだ。たまたま今、テレビドラマでも総合診療科医をテーマとしているものがあるが、当時は総合診療という定義自体があったかどうか定かではないが、医師不足の地域で何でも診てあげあられる医師がなりたかった。
若き日の決断を後悔はしていない。あの時違う選択をしていたならば今の幸せな家庭は無かったかもしれない。今の妻とも結婚できていなかったかもしれない。だからあのときの選択と決断は正しかったと思っている。でも、心のどこかで「夢」はくすぶっていた。
万が一でも宝くじが当選したら、「すぐに会社を辞職して医学部入学に向けて勉強したい」というのが本心だが、これはなかなか実現しそうに無いようだ。そもそもこんな歳で入学させてくれる医学部があるはずも無い。大学病院に入院してしまう確率の方がよほど高いだろう。